日本の食にご飯が欠かせないように、オランダ暮らしの真ん中にはパン(オランダ語でBrood)があります。菓子パンや一口パンは圧倒的に少なく、全粒粉の茶色い食パンが一斤単位でバラエティ豊かに揃っています。オランダのベーカリー(オランダ語でバッカレイ)は、全国展開しているチェーン店は稀で、地元に寄り添う個人店が多く、複数店舗展開でも市内どまりがほとんどです。毎日通う場所なので、いつものパン、いつもの店員と“行きつけ”も大切な要素なんだと思います。
アムステルダムから西に電車で15分ほど行ったところにある古都風情が美しい市ハーレムには、「Bakker van Vessem」というベーカリーがあります。創業1907年の老舗で、拠点を置くハーレム、お隣の町ヘームステーデなどに16店舗を構える中堅のチェーン店です。ちなみにニューヨークハーレムは最初の入植者がオランダ人であったことから名づけられています。
このベーカリーはパンのクオリティのみならず、ユニークな取り組みを行っていることで注目されています。店舗のひとつヘームステーデ店にお邪魔してみました。木材を使った建築家として注目されているオランダ人デザイナーのピート・ヘイン・イークによる落ち着きのある店内に、おいしそうなパンがずらっと並んでいます。オランダでは日本のようにお客さんがトングとトレーでパンを選ぶスタイルではなく、キャッシャーで欲しいパンを注文するのが通常です。
毎日通うパン屋さんで顔見知りになったお客さん同士でおしゃべりに花を咲かせてほしいと、“Ont-moeting”(出会い)と名付けたイートインコーナーを設けています。
洗練された店内でひときわ目立つものがありました。店の真ん中にデンと鎮座する大きなドラム缶です。
何をするものなのか聞いてみたところ、食べられなくなったパン、パンを包む袋を廃棄するゴミ箱とのこと。お客さんは賞味期限が切れたパンと袋をもってきてここに捨てることができます。そうやって集められたパンや袋は、バイオガス工場に運ばれて燃料にするそうです。
持続可能なベーカリーを目指して
冒頭に書いたBakker van Vessemの「ユニークな取り組み」とは、このドラム缶に象徴されるように、持続可能なベーカリーとして環境活動に本腰を入れて取り組んでいることです。Bakker van Vessemの4代目オーナーJos Huybregtsさんは、2002年にビジネスを引き継いだ時、100年以上続くベーカリーを次世代まで存続させるための戦略として食材と環境への配慮を柱に打ち立てました。個人店のベーカリーは、大型スーパーのインストアベーカリーに押されて非常に厳しい環境にさらされている一方で、グルテンアレルギーに対応したアイテム、安心できる原材料など、クオリティを求める声は年々高くなっています。
Bakker van Vessemでは、2007年にBakkers wereld紙が主催するオランダ国内のベストベーカリー賞を受賞、おいしいベーカリーとして国内での地位を固めながら、環境に配慮した農家とパートナーシップを組んだり、ウォーターヒートポンプやLEDライトの活用、トイレには雨水を使うなど、CO2排出削減に貢献する設備を着々と整備していきます。その取り組みが認められて2018年にはnederland CO2 neutraalという団体から、名だたる大企業を抑えて「Duurzaamste Bedrijf van Nederland 2018」(2018年度持続可能なオランダ企業)に選ばれました。
オランダでは“環境を考える”“オーガニックである”“サステイナブルである”ことは当たり前で、消費者の目も日本と比べてかなり厳しいものがあります。クオリティを保ちながら環境に配慮する姿勢は訴求ポイントになるはずで、どのように消費者に宣伝しているのか聞いてみると「環境活動だけを訴えることはしたくない」という意外な答えが返ってきました。理由は明快で「自分たちはベーカリーだから」。
また20年ほどかけて真剣に取り組むなかで、イメージばかりが先行して実が伴っていない事例をたくさん見てきたこと、意識が高い消費者が多いとはいえ、「地球に優しい行い」という誰もが反論できない正しいことを言葉で訴えても人の心に響かないからだといいます。
それよりも、お店では前述したドラム缶をはじめ、プラスチックや紙袋削減の一環として自家製コットンバッグ使用でディスカウントサービスなど、消費者が実感できる体験を重視しながら、グルテンの少ない古代小麦を積極的に使用したり、地元のビール醸造所で廃棄される酵母を利用して酵母パンを考案したり、身体によい食材のみを使った子どものベーカリー体験イベントを行ったりして“行動”を積み上げていくことが大切だとHuybregtsさん。
現在、Bakker van Vessemが取り組んでいる新たな試みが「True Price」です。True Priceは従来の価格決定要素だけではなく、生産から消費者に届くまでの全体のサプライチェーンの中での環境への負担、社会への影響などを価格に組み入れるという価格の新しい概念です。商品のひとつを試算した結果、従来のパンより15セント安いことがわかりました。それは、近辺の農家から小麦を仕入れていること、小麦生産において肥料を軽減していることが主な要因です。将来的にひとつのパンだけではなく、すべての商品をTrue Priceにすることができれば、消費者へのインパクトはさらに強いものになるだろうとHuybregtsさんは語ります。
Huybregtsさんの話を聞いて、環境活動を声高に訴えず、しかし消費者に実感をもって伝える難しさを感じました。あえて宣伝しなくてもいいという選択肢がとれるのは、マーケットが地元に絞られているという点もありますが、環境を経営の柱にすえ、「Bakker van Vessem=環境・食材」を企業カラーにしてしまうほど、先見性をもって着実に実行してきた努力の結果に他ならないと思います。